2006.09.04更新
上直竹上分は、今から四百十数年前に八王子城の落武者によって開拓された地域です。(注釈1)
彼らは同族であった成木谷の所久保に住む郷士の木崎氏 を頼って逃げ延びてきました。
木崎氏は山ひとつ北に越えた武州加治領であったこの地に住むことを勧めました。(注釈2)
それは今の黒指や細田でまったく未開の地域でした。
彼らは、山で焼畑農業をし、自給自足の生活を始めました。
水は山の下のほうから湧き出る水を使いました。
その後、苦労しながら土地を切り開いていき、今のような集落になったのは60~70年後のことでした。
80年後の1668年、検地が行われました。
そのとき、農地は18町2反4畝22歩、戸数は32戸、人口は188人、男は炭焼きやこびきをし、女は縄をなったり、機織などをしていたと記録されています。
当地でも、成木や小曽木同様、江戸城を造るために、石灰岩を掘り出し焼いて出荷することが行われました。
石灰は、白壁の漆喰(しっくい)に使われました
焼き場は、平らな場所の一方に石垣を設けたものです。
燃料である雑木を下に積み上げ、さらにその上に掘り出した石灰岩を乗せて焼きました。
右側から「もっこ」などで担ぎ上げ、上に載せたものと思われます。
焼かれた石灰岩に水を加えるとすごい勢いで崩れて粉になって行きます。
今でも間野黒指バス停横の石垣や切割(きりわり)のすぐ近くなどで、焼いた場所を確認できます。
写真の焼き場跡は、バス停の脇の場所で、原石は音添(おんぜえ)谷津から切り出したのですが、これは若干青みをおびていて、江戸城に出荷したが、他の石灰と混ぜて一緒には使えなかったようである。
故に、あまり使用されなかったため、綺麗な形で現在まで残ったと思われます。
切割近くの焼き場は、明治35年くらいまで使われ、かまだしのときは通行人にもおにぎりがふるまわれたそうです。
終戦後、他の土地に働きに出る人は増えましたが、それまではほとんどの人が、この土地で自給自足の生活をしていました。
その中で、養蚕は現金収入が得られる良い仕事でした。
養蚕は、年3回行われました。
当時はどこの家でも桑の木を畑で育てていました。
養蚕には、専門の言葉が多く使われますので、参考に記述します。
(掃き立て、ナラブ、ウラトリ、桑摘み、桑くれ、上簇、ヒキル、ヒキリ拾い、まぶし、繭かき) 南高麗郷土史p193~196
江戸時代から少しずつ焼いてきましたが、昭和の初めから昭和30年頃まで現金収入を得るため、炭が盛んに焼かれました。
炭には、白消しと黒消しという二つの種類がありました。 (注釈3)
白消しは、品質が良いのですが生産量が少なく、多くは黒消しでした。
戦時中、炭は統制品として扱われたことがありました。
江戸末期から昭和四十年代まで、この地の産業の中心は林業でした。
西川材は、柱としては最高の品とされ、早くにはいかだで東京まで運ばれました。
木を育てるには、杉や桧を伐採した跡地や、雑木を切った跡に植林をします。
40~50cmの苗木を購入して、約3.25平方メートルに1本の割合で植えつけます。
苗木が小さいうちはそのまま放置すると、草が覆いかぶさってしまうため、下草刈(合い刈り)を行います。
5年間位は年2回、その後3~4年間は年1回行います。
6~8月の暑い時期の仕事で、草いきれの中、蜂の巣などもあり大変な作業です。
10年程度経過すると、人の手が届く位の高さまで、冬季小払という枝切り(枝打ち)をします。
15年生位には、6尺(1.8m)梯子を使って10尺(3m)まで枝打ちをする。
これらの期間に雪が多く降ると木が曲がってしまうので、木の大きさにより縄や 針金を使って杉の木をまっすぐに起こし直します。
一般的には25年位経過すると売ることが出来ました。
元10尺を柱材にとり、その先端は足場丸太として、需要が多かった故である。
伐採は、斧(おの)、鋸(のこぎり)、鉈(なた)等を使用します。
昭和30年代からチエンソーも使われ始めました。
伐採した木の搬出方法は、土場(集積場所)までの距離により、概ね以下の方法によります。
近い場合は、担ぎ出し、又は、「トチ」という道具を木口に打ち込みロープをかけて引きずり出す。
遠くて大量の場合は、橇道を造ります。橇(そり)(木馬)を使用できる木の橋なども架けます。
橇を滑らす道は、一番上に直径5cm長さ1.3m位の馬木(ばぎ)を70cm間隔で平行に打ちつけ、その上を滑らせるように、ひっぱって運こびました。 この方法が、一般的でした。
修羅(シュラ)と呼ばれる方法は、長い丸太をV字型に連ね、その中を滑らせて土場まで運ぶ方法で、設備が出来れば、1本の木が数秒で運ばれてしまうが、木口を傷めるので利用は少なかった。
昭和30年後半から40年代にかけて、建設に使用される足場丸太は、鉄のパイプに取って代わり、使用されなくなりました。
また、安物の輸入材が入るようになると、国内林業は衰退して行き、経営は成り立たない現状にあります。
西川材 = 名前の由来は、江戸の昔、西の方から(いかだで川を)来る木材ということで「西川材」と呼ばれたそうです
(注釈 1) 天正17年(1589年)西国を平定した豊臣秀吉は、関東・東北に進出するため、11月、北条氏に挑戦状をつきつけた。
翌年、半年の間に北条氏の配下にあった、
関東の城のほとんどが落城した。
残ったのは、小田原城(城主兄の氏政)と八王子城(城主弟の氏照)だけになった。
6月に入り(総大将前田利家、上杉影勝)が1万5千の兵を率いて、八王子城の前後から攻撃を始めた。
城兵は300人と少数でも良く防いだが、20日余りの戦いで戦死者が続出し、生存者は僅か20人程度になり、6月23日落城した。
「南高麗郷土史、飯能人物誌より」
(注釈 2) 前後するが、秀吉の関東進出にあたり、氏政と共に主戦派であった氏照といえども、戦いの不利は早くから察していたものと思はれる。
天正15年秋のすえ、前記成木谷(東京都青梅市上成木)所久保の木﨑家(次右衛門の祖先)に、3人の子供を託したといわれる。
姉千代姫10歳、兄氏真7歳、孫氏3歳ごろであったと伝えられる。
木﨑家では、これを木﨑家の子供として養育し、成長後兄氏真を北小曽木征沢(現木﨑義平宅)に分家し、また、千代姫は若くして没したと伝えられる。
次男の孫氏は、上直竹村黒指に慶長5年頃分家させ、木﨑姓を名乗らせた。
孫氏16歳ごろ名前を権衛門と改め1町5反余りの畑を耕しながら名主や石灰焼きも行った。
「上記 南高麗郷土史、飯能人物誌、新編武蔵風土記稿より」
白消(白炭) = 1日で燃やして、真っ赤に燃えている木を翌日窯から出して、ご灰(土と灰を混ぜたようなもの)を使って消す。
そのため、3~4俵位の量しかできなかったが、炭の火力は強く、鳴らすとキーンキーンと金属音のような音がした。
黒消(黒炭) = 2日燃やして、空気を遮断して2~3日冷めるのを待って窯から出す。
30俵位取れる大きな窯を作った。
音は瀬戸物のような音です。